「
ブログの自由と、われわれの不自由」の回で、
「書きたいようには、なかなか書けないのだ。だから書くのだ」と書いたら、いくつかの反論があった。
その中には、反論というより反撥といった勢いで(“腹が立ってしょうがない”なんて書かれたりもした)、元の文に書いてないことにまで反論しているような文章もあって、驚いた。
「必要なら文章は書ける。書けないのは、その人にとってそれが必要じゃなかったから、もしくは、努力が足りないから、もしくは書きたいことを持ってないから、もしくはたくさんの文章を読んでないから」
そう考えている大人がいることを、ぼくは、ようやく実感した。
それは、ぼくにとって、少なからず、驚きというか、ショックというか、ある部分納得というか、ちょっと考え方を変えなければいけないなぁと思わされた体験だ。
何かについて書こうとする。
たとえば。
歩いていると、白い綺麗な猫がいた。
そのときの気持ちを書こうとする。
でも、それは、どうすれば伝わるのだろう。
ぼくは、猫が好きだから、その気持ちを文章にして、
他の人に伝えられれば、たくさんの人が素敵な気持ちを味わえて、
とても、いいなぁ、と、うっとりする。
気持ちを、胸の内から取り出して、ディスプレイにドンとぶつければ、それがデータ化されればいいのになぁ、と妄想する。
だけど、ぼくは、それを、未だに、ぼくの力では、文字にすることができない。
もちろん。
ぼくが、その白い綺麗な猫との出会いを、細かくデータとして記すことは、努力の果てにできるだろう。その猫がどういう種類で、どういう色で、何歳ぐらいで、場所はどこで(グーグルマップのリンクもつけて)、どのような仕草をして、どのような状況下で出会って………。
ビデオを持っていて、その仔猫を撮影して、その映像をアップして。それを見てもらえれば、どんなふうに白く綺麗であるか、そのことは見てもらうことはできるだろう。
でも。
ぼくが、その猫に出会ったのは、友達とちょっと喧嘩して、そんな帰り道で、ちょっとしょんぼりしていて、そんなときに、ぼくを励ましてくれるように(ははは、センチな妄想だ)ひょいと現れた、その気持ちこそを、ぼくは書きたいわけだ。
と、あれこれ、どうにかしようとして、そのときの気持ちを文字にしようとしているけど、できない。それどころか、あの瞬間の気持ちを、はっきりと思い出すこともできない。
でも、それは、その気持ちが、あの瞬間の、あの「ぼく」だけが抱いた気持ちだからこそ、つまりそのまま言葉に置き換えることができない普遍化することができないことだからこそ、どうにかして書きたいと、思えるのだ。
そして、無理だと思いながらも、あの猫の白さや、あのときの気持ちを、ひょんなズレの中で、手渡すことができる場合もあるだろうと思って、文章を書く、そのことが、楽しいと思う、そういうスタンスで、ブログを書いていきたいと思うのです。
そして、その「ズレ」が対話を産むのだと、思います。
そう考えれば、こんなふうに長々しく書かなくても、たとえば「白く美しいもので575」で、あの気持ちは手渡せるかもしれない、そう思います。
予告と内容がズレてしまった。
「銀一」というゲームで、「うっとりするもので575」は、どうして低調だったのか? を考えてみる。
って予告したんだった。
でも、それを考えていたら、上に書いたようなことを、ぐるぐるぐるぐると考えてしまったのでした。
「書きたいようには、書けないのだ。だから書くのだ」と、ぼくは、今でもそう考えています。書きたいように書けないのは努力が足りないからですか? どう思いますか?
では、また。