「うっとりするもので575」は、どうして低調だったのか?をぐるぐる考えていて。
前々回、たとえば、の話でこう書いた。
そして、無理だと思いながらも、あの猫の白さや、あのときの気持ちを、ひょんなズレの中で、手渡すことができる場合もあるだろうと思って、文章を書く、そのことが、楽しいと思う、そういうスタンスで、ブログを書いていきたいと思うのです。
そして、その「ズレ」が対話を産むのだと、思います。
そう考えれば、こんなふうに長々しく書かなくても、たとえば「白く美しいもので575」で、あの気持ちは手渡せるかもしれない、そう思います。
でね、その後も、「うっとりするもので575」についてぐるぐる考えていて。
俳句の本なんか読んだりして。
見つけたーーー!
見つけました。
あの猫の白さ、あのときの気持ちを表している575を。
神さまのやうにまつ白冬の猫(平井照敏)
いや、もちろん、あれは冬のことじゃなかったし。
でも、ぼくは、この句を見つけたとき、「あ、あ、あ、きたーー!」みたいな。
そんな気持ちになった。
ぴったりと、ぼくの気持ちを表していると、思った。勘違いした。勘違いだ。
“俳句という表現は片言的である”と坪内稔典は言った。
“俳句は、七・七音の付け句を切り捨て、五・七・五音のみで立とうとしたとき、自ら積極的に片言になろうとした”と書いている(『「俳句」百年の問い』(夏石番矢編・講談社学術文庫)の「「片言」の活力」P383)
だから“神さまのやうにまつ白冬の猫”って片言を、ぼくが勝手に妄想で自分の体験とつなげて「あのときの気持ちだ!」と興奮しているだけだ。
句会をやると、ときどきこんなことがある。
自分が作った句を、自分じゃない誰かが、「こういうところが素敵だ」と説明してくれて、びっくりする。その説明を聞いて、あっそれは素敵だ、って思うことがある。
自分が作った句なのに。自分では見つけてなかった素敵な何かを、他の人が見つけ出してくれる。そのとき、自分とその人が、句を作った感じになる。句を通じて、対話できた気がする。片言と片言がつながった気がする。
そう考えると、「書く」ことと「読む」ことは、そんなに変わりがない。
文章は、片言的で、誰かに発見してもらうために書いているんじゃないかって、ぼくは思っている。誰かってのは自分かもしれない。自分じゃない誰かかもしれない。
だから、ぼくは、一回目に
“縦の序列を昇っていくための文章ではなくて。”と書いた。
“文章が上手くなる術を伝授しない「ブログ文章術」を始める”と書いた。
それは「書けた」「書ける」という完成像や理想像があるものではなく、
手本を見つけて書くような静的なものでもなく、
何か正解や、縦の序列があるものでもなく、
経験を積めば素晴らしくなるものでもなく、
いつまでも書き直される動的なものとして、文章が、そこにあるべきだと、ぼくが考えるからだ。
“「公の場」であるブログに言葉の連なりを発表するということは、「あなた」との対話を求めているということだ”
どうしても、かけたところのある自分だ。
だから、いつまでたっても、書きたいように書けやしない。でも、書くのだ。
他者に書き直されるために。
余談。
想像の水母がどうしても溶ける(池田澄子)
って句は「うっとり」だなーって思った。